もりもりです。
生あるものは必ず死を迎えます。
事故や病気などで、死の淵をさまよい、〝臨死体験〟をする。
臨死体験で見たことは、死後の世界だったのか?
臨死体験で死後の世界を見てきた有名人の話。
・夏目漱石が体験した〝幽体離脱〟
・加山雄三が語る、衝撃的な〝臨死体験〟
・石原裕次郎は、〝三途の川〟を見た
・ビートたけしは、死の淵で〝逸見政孝〟さんと再会
・丹波哲郎は、〝2度の臨死体験〟を経験した
それでは、それぞれの「死後の世界」の体験談を紹介しますね。
最後まで読んでくださいね。
<出典元:眠れないほど面白い死後の世界>
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夏目漱石が体験した〝幽体離脱〟
夏目漱石は、慶応3年1月5日(新暦2月9日)に江戸牛込馬場下横町で生まれる。
本名は夏目金之助。
帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。
帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。
そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。
1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
夏目漱石が体験した幽体離脱
夏目漱石が生死の境をさまよったのは1910(明治43)年8月。
43歳のとき。
生まれつき、肉体的にも精神的にもあまり強いタイプではなくて、作家として絶頂期のときに、胃潰瘍(いかいよう)になる。
このとき、漱石は前期三部作として名高い『三四郎』『それから』に続く『門』の執筆(しっぴつ)にとりかかっていた。
そんなある日、療養先の伊豆・修善寺(しゅうぜんじ)でなんと八百グラムにもおよぶ大吐血をしたのでした。
後に「修善寺の大患」と呼ばれる出来事だ。
漱石はすぐに病院に運ばれるが、約30分、「生死をさまよう危篤状態」におちいったのでした。
このときの様子を漱石は著作『思い出す事など』に詳細に書き記しています。
興味深いのは、作品の中盤に書かれている自分の状態に関する記述です。
漱石が体験した〝尋常を飛び超えた〟精神状態
漱石は、大吐血をして5~6日が経つか経たないかの頃、毎日のように時々、一種の不思議な精神状態におちいったのだというのです。
それは、『尋常を飛び越えていた』そうだ。
人と話をできるほど回復はしていたが、まだふつうに話せる状態ではなかった。
ただ仰向けになって、病室の窓から見える外の景色を眺(なが)めることを日課にしていた。
そのときの精神状態を次のように記しています。
「そのうち穏やかな心の隅が、いつか薄く暈(ぼか)されて、そこを照らす意識の色がかすかになった。するとヴェールに似た靄(もや)が軽く全面に向ってまんべんなくのびてきた。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄(きはく)になった。それは普通の夢のように混雑したものでもなかった。またその中間に横たわる重い影でもなかった」
外を眺めているうちに、心が平穏な状態になり、自分の意識が希薄になっていったのだという。
そして‥‥‥。
「魂が身体から抜けると云ってはすでに語弊(ごへい)がある。霊が細かい神経の末端にまで行き渡って、泥でできた肉体の内部を軽く清くすると共に、官能の実覚(じっかく)*1から杳(はる)かに遠からしめた状態であった」
自分の魂が神経の末端にまで行きわたる感覚を味わい、恍惚(こうこつ)の状態に陥っている。
さらに続ける。
「床の下に水が廻(まわ)って自然と畳(たたみ)が浮き出すように、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団(ふとん)から浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂っていた」
まさにこのとき、漱石は幽体離脱をしていたのです。
加山雄三が語る衝撃的な〝臨死体験〟
歌手でタレントの加山雄三さんも、臨死体験をした人物として有名です。
2000年に刊行された「終わりなき航路‥‥‥加山雄三の人生」によると、加山さんが臨死体験をしたのは19歳のとき。
当時、〝慶応ボーイ〟だった加山さんが国民体育大会の予選の練習に、母親とスキー場に行った際、インフルエンザにかかり高熱にうなされてしまった。
すぐにスキーをしたかった加山さんは医者を呼び、抗生物質の注射を打ってもらうのだが、彼は少し特異な体質だった。
そのため、なんと体が薬に拒絶反応を引き起こし、次第に容態が悪化。
ついには数分間、心臓が完全に停止してしまった。
彼は、著者の中で、「小さな光があり、自分は暗闇の中にいて、その小さな光のところに行かなくちゃ、あの光のところにどうしても行かなきゃと、どこかで強く思っている」と書いている。
そして、その光が大きくなり、赤や黄色、緑の美しい筋が何本も横に浮かんだ。
その場所は〝お花畑〟のようだったという。
しかし、他の事例と異なるのは、彼は「自分こんなに若い、それなのにもう死んでしまうのか」と、苦しみもがいたとのだそうだ。
すると、母親の「しっかりするのよ!死んじゃダメ!」という声が聞こえてきた。
母親はこのとき、彼の手や足をもんだり、顔を必死にたたいたりしていたそうで、さらにバッグから数珠を取り出し首にかけた。
その甲斐あってか、どこからともなく、彼の体を暖かいものが包み、体全体がよみがえるような気がした。
「あっ、心臓が動き出した!」という声と、「大丈夫だ、大丈夫だ」という声が聞こえ、自分が〝どこか遠くから、戻ってきた〟ことを知ったのだそうだ。
石原裕次郎は、〝三途の川〟を見た
石原裕次郎さんは、1981年解離性大動脈瘤(かいりせいだいどうみゃくりゅう)と診断され、手術を受けている最中に『三途の川のようなものを見た』といいます。
臨死体験中に、白く輝く河原に迷い込み、その川をジープで渡ろうとしたのですが、 誰かがハンドルを押さえつけたために川を渡ることができず、 そのうちに意識を取り戻したということでした。
ビートたけし、〝死の淵で逸見政孝〟と再会する
たけしさんは、1994年原付バイクに乗って事故を起こし、右側頭部頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷という重傷を負い病院へ救急搬送されます。
「普通なら即死、よくて植物状態」と危険な状態だった。
後にたけしさんは事故をして病院に運ばれたことを思い出し、 「麻酔を打って手術する時に夢だか何だか知らないけど、上から自分が倒れているのを客観的に見たような気がする」 と告白しました。
そして、こんなエピソードもあります。
たけしさんが暗い空間をトボトボ歩いていると脱ぎ捨てられた着ぐるみが落ちているのを発見。 『おや、これはなんだろう』 たけしさんがその着ぐるみを覗き込むと、なんとそれは自分の着ぐるみでした。
その着ぐるみは傷だらけでズダボロだったそうで、たけしさんは初めは嫌だなと思ったそうですが、なんとなく着てみたくなって着てみることに。
すると、なんと病院のベッドの上で気を取り戻したのです。
着ぐるみを着る時に、嫌だけどたけしに戻るか、という感じだったそうです。
もう一つ。 生死の境をさまよっていた時に、夢の中で事故の前年に亡くなった大親友の逸見政孝さんが出てきたそうです。
あれは、「まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで話しました。
丹波哲郎は、〝2度の臨死体験〟を経験した
丹波哲郎さんは、書籍やインタビューの中で2度の臨死体験について語っていました。
1度目の臨死体験・・・
小学校1年の時。妹と一緒に食べた饅頭が腐っていたことから、赤痢になり病院で意識を失う(妹は他界した)。ベッドで寝ていると体が宙に浮き、下にいる自分自身を見つめていた。さらに視界は、四方八方を自在に見渡すことができたという。
2度目の臨死体験・・・
2度目は2005年にインフルエンザと肺炎、盲腸のため入院した時のこと。意識を失った丹波は、壁を通り抜けることができ、ふと窓の外を見ると海が広がっていた。なんと巨大な船に乗って航海していたというのだ。誰かが丹波を呼ぶ声がするので、船の行き先を尋ねたところ、知らない場所の名前を告げられた。そこで目が覚めたのだとか。
彼らに共通するのは、〝臨死体験の後、愛情深くなり、いい意味で人生観が変わった〟と語っている点だ。
もしかしたら〝臨死体験〟は、神によるはからいなのかもしれない。
記事の動画
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最後に
死後の世界はあるのでしょうか。
臨死体験を経験した人が見たものは、死後の世界だったのでしょうか?
それは、臨死体験を信じるか、信じないで大きく変わってくるでしょうね。
今日も読んでくれてありがとうございました。
*1:実際に感じられること。現実の感覚。