もりもりです
「不沈船」と謳うたわれた、イギリスの豪華客船『タイタニック号』の海難事故のお話しをしたいと思います。
氷山に衝突し、「1,514人が犠牲」となった、
タイタニック号の沈没事故は、戦時中に沈没した船舶を除くと、20世紀最大の海難事故です。
それでは、
・タイタニック号の事故!
・虫の知らせを感じた人たち!
・タイタニック号の事故を14年前に予言?
・日本で起こった最悪な海難事故!
についてお話しますね。
では、悲劇のタイタニック号を知る旅に出てみましょう。
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タイタニック号の事故!
タイタニック号は、1912年にイギリスのホワイトスター汽船が、大西洋横断航路用に建造した客船です。
全長269,1メートル、全幅28,2メートル、高さ53メートル、総トン数46,328トンで、高さ17階建てのビルに匹敵するほどの大きさで、当時では、世界最大の客船でした。
さらに、高級ホテルのような内装だった。
しかも、1等席には、たった7日間の船旅に、じつに575万円もの大金を払う富豪たちまで乗り合わせていたのです。
1912年4月10日、2,224人を乗せた、世界最大の客船『タイタニック号』は、イギリスのサザンプトンを出港して、目的地のアメリカのニューヨークへ向けて、処女航海に出ました。
そして、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)、タイタニック号は、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突する。
その衝撃で、船体には直径90メートルもの大きな穴が開き、そこから浸水し、2時間40分後の「翌4月15日の2時20分」に、タイタニック号は沈没した。
乗客と乗組員合わせて、1,514人(1,490人、1,517人、1,522または1,523人、1,609人などさまざまな説がある)が亡くなり、710人が生還しました。
じつは、このタイタニック号の事故を予知した人たちがいたといわれています。
虫の知らせを感じた人たち!
タイタニック号が出港する直前に、なんと55人もの人がキャンセルしたそうです。
キャンセルした人の中には、妙な胸騒ぎがするなど、虫の知らせを感じて、キャンセルした人もいたようです。
レストラン支配人の妻の胸騒ぎ・・・
タイタニック号の豪華レストランの支配人、ルイジ・ガッティの妻は、
夫の航海が決まってから、すごく胸騒ぎがするので、夫にタイタニック号に乗ることをやめるように言い続けました。
しかし、レストランの支配人が、そんなことを理由に船に乗るのをやめるなんてできるわけがない。
しかたなく、なんとか夫人をなだめたのだった。
夫人の予感は的中したが、彼は幸運にも生還することができた。
彼はかろうじて生き延びたことに感謝し、生涯夫人の予言を忘れなかったそうです。
チャールズ・ヒューズ夫人が見た夢・・・
イギリスのストーク・オン・トレントにすむ、チャールズ・ヒューズ夫人は、不思議な体験をします。
タイタニック号が沈んだ夜、当時14歳だった彼女は、ストークにあるトレンザム公園へ歩いて行く夢を見ました。
すると、夢の中で、とても大きな船が見えたのです。
やがて、船は急に傾き、船からは恐ろしい叫び声が聞こえてきた。
彼女は、この恐ろしい夢にうなされて目を覚まし、さっそく祖母にこの夢の話を伝えたのでした。
後になってわかったそうですが、タイタニック号の事故で、祖母の息子である、四等機関士のレオナルド・ホジキンソンが亡くなっていたのでした。
讃美歌の祈りもむなしく・・・
カナダのウイニペグのメソジスト教会の牧師、「チャールズ・モーガン氏」は、
礼拝の前、うとうとと、居眠りをしていた。
すると、夢の中で、凄すさまじい水の音と、人々の叫び、そして古い讃美歌さんびかが歌われるのを聞いたのでした。
モーガン牧師はあわてて目を覚まし、衝撃的な夢に、非常に強い印象を受け、その夜の教会で行われた「礼拝れいはいの終わり」に、参拝者の人々に、この夢の話をしました。
そして、夢の中で聞こえていた、「聞いて下さい、父よ、海の危険を免れるようにと祈る、私たちの声を」という、古い讃美歌をみんなで歌った。
そして、ちょうど同じころ、沈みゆくタイタニック号の上でも、偶然にも同じ讃美歌が歌われていたのでした。
タイタニック号の事故を14年前に予言?
タイタニック号の沈没事故を、予知していたのではと思えるような小説があります。
この小説は、タイタニック号の沈没事故の14年前に書かれたものです。
1898年にモーガン・ロバートソンという小説家が発表したもので、「フューティリティ(無益)」というタイトルで、
豪華客船「タイタン号」が大西洋上で氷山に激突し、多くの犠牲者を出すというストーリーです。
小説の内容は、気味が悪いほどタイタニック号の事故と一致しています。
船が出港する地点が逆ではありますが、
「タイタン号」がニューヨークからイギリスに向かう途中で氷山と衝突して沈没するというストーリーです。
また、タイタン号とタイタニック号と名前が似ていることや、
事故が起きた時刻が近いなどの多くの共通点があります。
しかも、
・「不沈船」と謳うたわれて大西洋に出航し、右舷に氷山と激突し沈没する。
・救命ボートが、乗員数に満たなかったことで、多くの人が亡くなった。
など、あまりにも共通点があるために
この小説は、タイタニック号の悲劇を予知していたのではないかとまで言われています。
ただ、彼は商船乗組員としての経歴があったので、このような物語を思いついたのかもしれませんね。
日本で起こった、最悪な海難事故!
1954年(昭和29年)9月26日の午後10時過ぎ、台風第15号の影響により、北海道函館港において、日本国有鉄道の青函連絡船洞爺丸が転覆沈没した!
159人は救助されますが、「死者・行方不明者」合わせて1,155人(乗客1,041人、乗組員73人、その他の者41人)に及ぶ、日本史上最大の海難事故となった。
翌日になって、七重浜では、次々と遺体が引き揚げられます。
28日には、本州から家族約600人が函館に着き、わずかな希望を頼りに、肉親を捜し求めます。
なぜ、これほどの大惨事になったのか?
洞爺丸は、1954年9月26日の14時40分に、青森を出航し函館へ向かう予定だった。
しかし、接近する台風の影響で函館に引き返してきた、進駐軍専用の青函連絡船、第十一青函丸に乗っていた米軍軍人と米軍専用車を洞爺丸に移し替えることになり、出航は大幅に遅れ、最終的には18時39分に出航します。
出航後、風雨が強まり、洞爺丸は函館港防波堤灯台付近で一時停止しますが、
平均40m/sミリ秒、瞬間的には50m/sを超える、暴風のために錨いかりがきかず船体が流されてしまいます。
さらに、20時30分頃には、船内への浸水と船体の揺れにより、発電機が止まり、22時頃にはエンジンまでも止まってしまう。
船長は沈没を避けるために、遠浅の砂浜である七重浜ななえはまに座礁することを決断した。
そして、22時26分に洞爺丸は七重浜に座礁し、船体は右舷側に45度傾く。
これで転覆の危険は去ったと思われたが、22時43分に、左舷の錨鎖びょうさが切断されて、船体は横倒しとなってしまった。
22時45分には、洞爺丸は右舷側に、135度傾斜して沈没し、最終的に船体はほぼ裏返しとなる。
この転覆事故で、乗客乗員合わせて、1,155人が死亡、または行方不明となってしまう。
出航から、わずか4時間余りの出来事でした。
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記事の動画
最後に
今日は、20世紀最大の海難事故といわれる『タイタニック号』と、日本における最悪な海難事故『洞爺丸事故』についてお話しさせていただきました。
これらの事故は、それぞれの時代における最大の海難事故となり、多くの人々の命を奪いました。
船舶の安全、そして乗客の命を一番に考えていれば、これだけの被害者を出さずにすんでいたのかもしれませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。