もりもりです。
聖徳太子を知らない人はいないでしょう。
ただ、多くの謎につつまれた人物でもあります。
聖徳太子は予言者?
実在しない人物なのか?
そんな謎めいたことがささやかれています。
〈出典元:世界を動かした予言〉
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日本書紀にも記された聖徳太子の予言
聖徳太子は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた存命中から、さまざまな異説がささやかれ、謎の多い人物だ。
興味を引かれるのが、聖徳太子が予言をしていたということです。
聖徳太子の予言を記したとされる書は、幻の書とされ『未来記』と呼ばれています。
聖徳太子は幼い頃からさまざまな予言をしていて、物部氏と曽我氏が争ったときにも「物部守屋(もののべのもりや)は死すことになろう」と予言していて、結果は予言通りになったのです。
国家の正史である『日本書紀』にも、「厩戸皇子、未然を知ろしめしたもう」という一節があります。
聖徳太子が未来のことを予言しているという意味になるそうです。
現在まで、正史に予言をしたと記されているのは聖徳太子だけなのです。
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幻といわれる『未来記』を見た人物はだれ?
末来記を見た人物は藤原定家と楠木正成だといわれています。
楠木正成(くすのきまさしげ)は『未来記』を読み後醍醐天皇側の勝利を確信したそうでなんです。
日本書紀にあるのは、「兼知未然」という文字だけで、聖徳太子の予言がどのようなことなのかは書かれていないそうですが、予言の内容はひそかに法隆寺系や四天王寺系の太子ゆかりの寺の僧の一部によって伝えられていたようです。
たとえば平安期の歌人・藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、日記『明月記(めいげつき)』のなかで、瑪瑙石に刻まれた聖徳太子の『末来記』の一部を発見し、そこに「やがて関東武士勢力(鎌倉幕府)が世を治めるようになるであろう」と書かれていたと記しています。
また、『太平記』によると、南北朝時代の武将・楠木正成は大阪の四天王寺で、末来記の断片を読んでいて、そこには「人王96代に当たり、天下一たび乱れて、主安からず、東魚きたりて四海を含む。日、西天に没する374余日、西鳥きたりて東魚を喰らう」と書かれてあったそうです。
楠木正成は「人王96代」を後醍醐天皇、「東魚」を北条氏とし、それを喰らう「西鳥」を自分のことだととらえ、370日がんばれば勝てると考えたようです。
また、江戸時代の僧・潮音は太子が記した『末来記』を元にした解説書『未然本紀』を発見し、そこには622年から1622年までの予言が書かれていて、それ以降の時代も100年ごとに同じ事件が繰り返し起こると書かれていたようです。
江戸幕府により焚書(ふんしょ)*1の憂き目に遭い、この『未然本紀』も現代には伝わっていません。
末来記を解き明かす鍵
末来記を解き明かす鍵は法隆寺の五重塔にあります。
楠木正成などの目撃談はあるものの、聖徳太子が記したといわれる『末来記』はすでにこの世に存在しません。
しかし、『末来記』を形として残したといわれるものがあります。
それが、奈良の法隆寺にある五重塔です。
「寺=テラ」は世界を表す「テラ=TERRA=地球」であり、法隆寺全体が世界の象徴だといわれています。
五重塔が、人類の未来を示しているというのです。
聖徳太子が信仰した仏教の祖・釈迦は、人類の未来を自らの入滅後500年ごとに5つの時代に分類し、釈迦の屁護(ひご)*2の下にある時代とした。
法隆寺の五重塔の各階層は、500年ごとに分類された5つの時代に相当するというのです。
それぞれの階層の壁には、その時代を象徴する絵が描かれていたようですが、のちの権力者によって消されてしまったそうです。
一説には、その絵があまりに凄惨(せいさん)*3な内容だったからともいわれています。
釈迦入滅(定説では紀元前480~500年頃)のあと、500年を5回過ぎた2500年後になると、釈迦の屁護がない時代になる。
人々は、今までとはまったく異なる世界に投げ出されることになるのです。
それはオゾン層を失い、放射線を遮(さえぎ)るバンアレン帯をなくそうとする、人類の末路なのかもしれません。
問題となる釈迦入滅後2500年目は、いったいいつなのでしょう?
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聖徳太子は架空の人物で実在していなかった?
もしも、聖徳太子か架空の人物てあったのなら、歴史が大きく変わるのではないでしょうか!
なぜこのような話が出てきたのでしょうか?
厩戸皇子(うまやどのおうじ)の実在は確かなようです。
しかし聖徳太子と厩戸皇子が、同じ人物かは疑問だというのです。
いくつかの疑問・・・
●十七条憲法はあとから作られたもの?
聖徳太子が作ったとされる十七条憲法も、その当時に作られたのかが、疑問です。
たとえば、役人の呼び方や内容に、当時にはない後世の考え方や意味が含まれていたのです。
もしかしたら、あとから書かれたのか。
書き足されたものなのでしょうか。
それに、日本書紀にしか十七条憲法の記述がないというのも、すごく不自然ですよね。
厩戸皇子は斑鳩宮に住み、法隆寺を建てたのは本当かもしれませんが、日本書紀自体はそれから100年近くして作られたものなので、聖徳太子は藤原不比等らによって作られた架空の人物だったのかもしれません。
●肖像画は聖徳太子ではない?
日本最古の肖像画とされる聖徳太子の姿ですが、疑問に思われるものがあります。
聖徳太子は、飛鳥時代の人物なのに、「頭に被っている冠、身にまとっている衣服、持っているシャク」は、聖徳太子の時代には存在しなかったものなのです。
肖像画に描かれているものは、大化の改新以降のもので、顔に描かれている髭も、あとから描き足したのではないかといわれています。
●『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は誰が作った?
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子がまとめたとする書です。
しかし、全く同じ内容の本が中国に存在するようで、その内容も後世のものの引用があり、聖徳太子が作ったというのは、あり得ないことなのです。
これらの事実から、聖徳太子の実在が疑われているのです。
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まとめ
聖徳太子は予言者であり、その予言内容は幻の書とされ、『未来記』と呼ばれる幻の書に記されていた。
はたまた、聖徳太子は架空の人物であり、ほんとうは実在していなかったともいわれています。
謎の多い人物であることは間違いないですね。
今日も読んでくれてありがとうございました。